しっとりとした秋雨が、石畳の路地と軒先をやさしく濡らしていた。夕日が雲の向こうで頼りなく沈みかけている。谷川紗和は、公民館の会議室を出て、傘を細く開いた。午後から続いた地域振興イベントの施策会議は、思いのほか白熱し、普段は控え目な自分も意見をはっきり口にしてしまった。その高揚感がまだ空気の奥に滲んでいる。けれど同時に、気疲れのようなものが胸の下に重く広がっていた。
会議の最後、旅館の若主人・坂下俊哉が柔らかい声で「谷川さんの提案、助かりました」と言ってくれたことを思い出す。あの言葉だけで、一日の疲れも半分は消えた気がした。もう半分の疲れは、午後から冷えてきた体と、言葉になりきらなかった思いが生んでいる。
ふと、浅く息を吐く。温泉街のほそい路地には、地元の人がまばらに歩き、店じまい前の明かりが点いたり消えたりしている。紗和は傘越しにその光り方を眺め、石畳を次の一歩に選ぶ。公務員として、地域とともに歩むという仕事の重みと誇り。けれど今は、職場の名札をそっと裏返して、ただ一人の私に戻りたい。そんな気持ちで、外湯「ゆのや辻湯」の淡い湯けむりを目指した。
足早に路地を抜け、辻湯の小さなベンチに腰掛ける。べっこう色の雨に濡れた石畳が、行き過ぎる提灯の光をぼんやりと照り返していた。紗和は和傘を畳み、ベンチの脇で靴を脱ぐ。湯船の縁に直接足を浸すと、熱すぎず、けれど確かに芯から温まる湯がふくらはぎをやさしく包んだ。全身からまだ抜けきらない緊張が、ほぐれてゆく。
「はあ……」と、ようやく深く息をつける。会議、意見交換、俊哉の微笑み。そのすべてが、雨音と湯気の中で静かに溶けていく時間だった。スマホを膝にのせると、画面に溜まった未読通知が小さく震えた。仕事関連のLINE群に混じって、一つだけ私的な光が瞬いた。
坂下俊哉。名前を見ただけで、鼓動がいつもより僅かに早くなる。「今日の意見、すごく嬉しかったです。またお話できたら、今度ゆっくり温泉街を二人で歩きませんか?」。素朴な文面だけれど、仕事抜きで誘われたのは初めてだ。会議後の余熱と、普段の自分の距離感の間で、不意に胸が揺れる。
温泉の匂い、秋雨のしずく、鮮やかな灯りのにじみ。その中で紗和は、仕事とプライベートの境目をほのかに意識しながら、俊哉のメッセージの意味と、自分の気持ちをそっと見つめ直してみるのだった。
しんとした秋雨の音に包まれながら、紗和は足湯の温かさをじっと味わっていた。辻湯の目の前のベンチは、今夕は誰もいない。ゆっくりとふくらはぎを湯につけ、滲み出す心地よさに身を委ねる。その足元に置かれたスマホから、再びそっと振動が伝わってきた。画面には、さっき受け取ったばかりの俊哉からのLINEが鮮明に浮かんでいる。
「谷川さんの意見、すごく嬉しかった。今度また二人で温泉街、ゆっくり歩きませんか?」
短い文章。その率直さと、どこか控えめな語り口には、俊哉らしい柔らかさが滲んでいた。けれど、紗和の胸の奥では小さな戸惑いが波紋のように広がる。仕事抜きで、二人きりで歩く誘い。それはこれまでの関係にはなかった温度を孕んでいる。
――どうしよう。
嬉しい、という思いは紛れもなく本心だ。地域のことも、俊哉の話も、もっと聴いてみたい。それでも職場での日常や、公務員という自分の立場と、個人的な“私”を行き来するには慎重さが必要だ。同時に、仕事以外の顔を見せることに不安も混じる。断る理由は見当たらないけれど、即座に「ぜひ」と返す勇気もなく、既読マークのついたトーク画面を開いたり閉じたりする。
湯気の中でひとり、紗和はどこか浮遊するような心地で自身の輪郭をなぞってみる。仕事として歩む温泉街も好きだけれど、ただ一人の女性として、俊哉と並んで歩く道はどう映るのだろう。素直になりたい気持ちと、境界線を引こうとする理性、その両方が自分の中でせめぎ合っている。
傍らでは秋雨のしずくが、木のベンチの傘受けに低く響いていた。ふと、親友の有馬遥の顔が脳裏に浮かぶ。いつも「紗和は慎重すぎるくらいがちょうどいいけど、気持ちをごまかす必要はないよ」と微笑んでくれる親友。――遥なら、どう返すだろうか。今すぐにでも「相談したい」とLINEすれば、きっと的確で温かな言葉が返ってきそうだ。
だが今は、まだその前の段階。俊哉の「歩きませんか?」の文字と、自分の「どう返すか」を、しばし一人きりで考えたい。膝の上で両手を組みながら、雨にけぶる足湯の湯面に自分の表情を重ねてみる。「仕事の延長」なのか、「少しだけ特別」なのか。どちらにせよ、焦る必要はないはずだ。
紗和の指は、今にも俊哉のメッセージに触れそうで触れず、静かに和傘の雫を見つめ続けていた。湯けむりの奥、灯りがゆらゆら揺れている。心まで静かにほどけていく夕暮れだった。
ふくらはぎをすっぽり湯に沈めていると、不思議と自分の核心が浮かび上がってくるような気がした。俊哉の誘いをどう受けとめて、どんな言葉を選べばいいのか。画面を見つめるほどに、心のなかの期待と不安が複雑な模様を描いていく。嬉しいのは事実。でも、それを正面から伝えてしまっていいのだろうかと、どうしても迷いが残る。
「こんなとき、遥だったらどう返すかな……」思わず、口のなかでつぶやいた。親友の有馬遥は、いつも自分の背中をそっと押してくれる存在だ。躊躇いがちな自分に寄り添いすぎることなく、「もう少し自分の気持ちを出してみたら?」と、やわらかな肯定をくれる。ありがたくて、時に眩しい親友。その遥に、久しぶりに頼ってみたくなった。
紗和は膝の上のスマホをそっと開き、遥とのトーク画面を選ぶ。指先が濡れたせいか、文字の入力が何度か小さくずれる。その細かなもどかしささえ、今の自分を表している気がした。
――「遥、今ちょっと相談したいことがあって……。俊哉さんから『今度また二人で温泉街、ゆっくり歩きませんか?』ってLINEが来たんだ。仕事抜きで誘われたの、初めてで……私も嬉しいけど、どう返すか悩んでて。」
送信ボタンを押した指の先が小さく震えた。すぐに既読マークがつく。この時間なら、まだ職場を出ていないかもしれないのに。しばらく沈黙が続き、湯船の表面を滑る小雨のしずくがかすかに響く。やがて、画面の下に「入力中…」の表示。紗和はふっと胸をなでおろし、顔を上げた。湯気の向こうに灯る提灯は、雨粒を受けて一層淡く輝いていた。
「紗和、そのまま感じたことを書いていいと思うよ。急には踏み込まなくていいし、どんな距離感が心地いいかは紗和次第だもん。まずは“私も歩きたい”って言ってみたら?無理に特別な感じを出す必要はないし、気になるなら“案内してもらえますか?”くらい柔らかくするのもありだと思う。」
遥の返事に、じんわり安堵が広がる。仕事と私。理性と期待。どちらか一方を選ぶんじゃなくて、両方を静かに抱えながら先に進むこともできるのかもしれない。遠くで鳴る、店じまいの準備の音。それさえ、この小路の穏やかなリズムの一部のように感じた。
紗和はあらためて俊哉のLINEを見つめなおす。職場の谷川紗和でなく、一人の自分として、どんな歩幅でこの坂下俊哉と向き合いたいのか。遥にもらった背中を押す言葉は、優しい宿り木みたいに心を支えてくれていた。
胸の奥に、ふっと光が灯った。スマホを両手で包みこみ、雨と湯気が静かに揺れる風景のなかで、紗和は慎重に、そしてごくわずかに勇気を込めて、これからの返信を考えはじめた。
湯気に包まれながら、紗和はゆっくりと呼吸を整えた。ふと、ポケットに入れていた小さなメモ帳を取り出し、その表紙を指でなぞる。普段から気持ちが揺れたときに、浮かんだことを箇条書きで書きとめるクセがある。けれど今は、紙よりもスマホを使うほうが素直になれる気がした。
紗和はスマホのアプリ一覧に目を移し、ひとつReliasという名前のツールを立ち上げる。遥と話す時にも、ときどき「こんな文案が思い浮かんだんだけど、どう思う?」とこのアプリを経由して意見を整理する習慣ができていたのだ。画面に向き合いながら、いくつかの返信パターンを入力してみる。
一つめは、「案内してもらえると嬉しいです」という、遥が言ってくれた“柔らかい枠”の提案調。ほんの少し距離は保てそうだけれど、自分の気持ちはややぼかし気味。
二つめは、「私も温泉街をゆっくり歩きたいです」と率直に伝えてみる案。ただし、二人きりが前提になりすぎない工夫も必要だと感じる。
三つめ、「またみんなと一緒でもいいですか?」と、仕事の延長線っぽさを残して控えめに抑えるパターン。これなら波風も立ちにくいかもしれないが、どこか自分の素直さからは遠くなる気がする。
画面のなかで文案を見比べているうちに、紗和は自分が何を大切にしたいのか、少しだけわかってきた。俊哉からのお誘いを単なる“地域案内”にはしたくない。それでも、いきなり距離を縮めるのも気が引ける――そんな心の揺れが、文案の一つひとつに現れていた。Reliasの「並べてみる」機能で、三つの案をわかりやすく整列させてみる。
表示されたそれぞれの言葉をたどるうち、どれも正解であり得るけれど、自分の心に最も近い温度を探していることに気づく。
「次の一歩が楽しみ」という自分の気持ち。それを損なわない程度の踏み込みが、今の自分には必要かもしれない。紗和は「案内してもらえますか?」という提案調の一文に、ほんの少し自分らしい色を添えたいと感じた。
Reliasに「やや前向き&控えめ」などのタグをつけて保存しておく。後から見返せば、どれが自分にしっくりきたか、もう一度考え直せるだろう。
そして、遥がよく言うように、自分の「大切にしたい線」を守ることも忘れずにいたい。相手の好意を試すような操作はせず、不安や躊躇いも認めつつ誠実に伝えたい。
紗和は小さく息を吐き、ほんのりと笑みを浮かべた。画面の文案の横に「自分のペースで」「率直さ+相手への配慮」と手書きのメモを残す。
その瞬間、隣のベンチに腰かけた初老の女性が、「お湯、ちょうどよくていいわねえ」と話しかけてきた。紗和は少しはにかんで「はい、温まりますね」と穏やかに答える。その短い会話にも、温泉街ならではの距離の近さと安心があった。こうやって少しずつ、自分のペースでつながっていくこと。それこそが、紗和にとっては何より大切なのかもしれなかった。
足湯のあたたかさと、画面越しの遥や俊哉への思いが胸の中で静かに重なり合う。紗和はもう一度、じっくりと文案を見直し、心のなかのバランスが取れた気がした。湯けむりの向こう、しとしと降る秋雨を眺めながら、どんな一言を送るのが自分らしいのか――いまは穏やかに、その答えを選ぼうと決めていた。
紗和は、画面をスクロールしながらReliasに追加の項目を打ち込む。ふと、右下の「コメント」欄に、メモ代わりの小さな疑問を走り書きした――「私らしい返信とは?」。そこから新しく枝分かれした案も、ひとつずつ記録されていく。
例えば、遥の「素直さ」をヒントに「俊哉さんと少しゆっくり歩いてみたい気持ちは正直に伝えたい。でも、私の気持ちを重荷に感じさせたくはない」と、率直さと配慮、両方の視点を書き出す。より温度感が伝わる単語を探そうと、アプリの「表現アシスト」機能も使ってみる。打ち込んだ文章の横には、「私も~したい」がどれくらい前向きに聞こえるか、あるいは控えめに響くかといったニュアンスを数値化したアイコンが並ぶ。それを見ながら、紗和は自身の曖昧な心持ちを、少しずつ明瞭な輪郭に整えていった。
同時に、「日程を先に決めるか、まず気持ちだけ返すか」という悩みもリストに加える。参加の仕方次第で伝わる自分の距離感も異なってくるからだ。紗和は「来週以降の落ち着いたときに」など、具体的な例も入れてみることで、自分がどこまで歩み寄れるかを慎重に見極めた。
ひととおり文案が出揃うと、今度は「境界線」と名付けたフォルダに、「まずは仕事抜きが新鮮で、少し緊張している」と正直な気持ちも記録。これを読むことで、俊哉の側にも思いやりを持ちたいという気持ちを、文字として残すことが自分へのケアになる――そんな実感が湧く。
Reliasの「比較」機能で複数案を並べ、加点方式で「率直さ」「やわらかさ」「慎重さ」の観点から自己評価もしてみる。点数を入れる手間は、意外と自身の内面との対話になり、強引なアプローチではなく、自然と相手への敬意も含まれていく。「俊哉さんがどう感じるかはわからない。でも、私が無理せず出せる言葉にしよう」。小声でそうつぶやきながら、スマホの画面を一度伏せてみた。
その一連の整理と検討の中で紗和が心に決めたのは、「俊哉さん、もしよかったらまた案内してもらえますか?」という提案調の表現。Reliasに記録した作戦メモにも、「相手の同意や余地を残す」「断っても負担を感じさせない雰囲気」など、意図を簡潔にまとめて添えていく。
同時に、「期待しすぎない」「相手の返事も尊重すること」と注意喚起のチェックリストも生成される。これこそが、今の自分のやさしい作戦だった。相手への一歩と自分の歩幅、どちらも大切にできるバランス。それを確かめたかったのだ。
この細やかな工程の末、紗和は充実感にも似た静かな自信を覚えた。画面の向こうには、遥も、俊哉も、そして何より過去の自分もいるように思える。湯気と秋雨に包まれたこの夕暮れに、紗和は「これでいいのだ」と心のなかでそっと頷いた。その手はやがて、返信を決める瞬間に向けて、温かく準備を整えていった。

もみじ色を帯びた雨のしずくが石畳に落ちる音を背景に、紗和は遥から届いたばかりのLINEの文章を何度も目で追った。「そのまま感じたことを書いていい」「無理に特別な感じを出す必要はない」――画面の向こうにいる親友の、屈託のない優しさが温かく滲んでくる。
遥の言葉は、まるでこの足湯の湯気のように、そっと紗和の思考の隙間を満たしていった。幼い頃から人の輪の中で少し引いた位置にいるのが心地よかった紗和にとって、「踏み込みすぎずに素直でいればいい」というアドバイスは、不思議なほどしっくりと体に馴染んでいく。職場での自分、家族の前の自分、そして、静かな雨に包まれた今このときだけの自分。そのどれもが本当なのだと思える。
――あれもこれも、無理に一つにまとめなくていいんだろうか。
いつもなら「相手の気持ちはどうだろう」とつい深読みしてしまう。俊哉の誘いも、あくまで「施策会議のついで」なのか、それとももう少しだけ違う表情を求めているのか。その判断に迷えば迷うほど、心がきしむ。だが今は、遥の言葉を借りて、湯の中で手をほどくような感覚がある。
指先に感じていたわずかな震えが収まり、紗和はゆっくりとスマホのキーボードに触れた。返事は急がないで、と遥はいつも言う。それでも、いまの温かな気持ちが冷めないうちに、一度だけでも自分に正直な言葉を打ち込んでみたい気がしていた。
――「私も歩いてみたい気持ち、あります。俊哉さんの案内なら、きっと新しい発見があると思うから。」
一息で文字にしてみて、ディスプレイの上にそっと両手を重ねる。あえて送信はしない。送る前の、ほんの数秒の間にも、心の奥にさざ波のような思いが立ち上がる。「でも、“二人きり”という言葉が意味しすぎてしまわないかな」「仕事の延長と捉えられるほうが、今は安心かもしれない」。答えは一つじゃなくていい。遥のいう通り、自分が心地よい距離感を探りながら、少しずつ歩幅を決めていく。
ふと、背後の軒先から、おばあさんが手ぬぐいを絞っている声が聞こえた。暮れかけた灯りの奥、穏やかな温泉街のリズムがこの瞬間にも流れている。紗和は改めて遥に短く「ありがとう、遥の言葉で少し落ち着いた」と送った。
返ってくる「いつでも背中押し隊だからね!」という遥らしい明るいメッセージ。その一言が、紗和の胸にほんのりと勇気を残した。スマホを再び膝に置き、指先で小さく湯を撫でる。その手はいくぶん軽やかだった。俊哉への返信はまだ下書きに残しつつ、今この足湯の温もりが心まで伝わるのを、静かに味わっていた。
指先がすっかり温まり、少し赤らむのを眺めながら、紗和は改めてスマートフォンの画面を開いた。薄く煙る湯けむりの向こうで、誰かがお湯加減を確かめる声がふんわりと届く。空はまだ明るいが、細やかな雨脚とともに石畳には橙色の街灯が淡く映り込み、どこか心も洗われるようなひとときだった。
俊哉から届いた「また二人で温泉街、ゆっくり歩きませんか?」というLINE。その一文が、今も胸の奥でそっと波紋を広げている。一度遥に相談し、もらった言葉に勇気をもらえたとはいえ、返信を打つとなると、また少し躊躇いがつのる。仕事との線引きも、自分の素直な思いも、どちらも大切にしたい。けれど、「二人きり」に応じることで、どんな印象を与えるだろう――そこに、ほんの少し怖さもある。
「……Relias、私の整理下手な頭を助けてね」
半分冗談めいて、画面をReliasのアプリに切り替えた。出てくる候補を思いつくまま入力してみる。
ひとつは
《ぜひ歩いてみたいです。俊哉さんのおすすめ、教えてもらえたら嬉しいです》
これは率直すぎるだろうか。相手に気持ちが伝わりすぎて、あとで照れてしまいそうだ。
次は、
《地域案内してくださるなら、興味あります。お忙しくなければまた教えてください》
少し距離を取った表現。繋がりは保てるけれど、どこか事務的で、自分の本音が薄まってしまう。
あるいは、
《お誘いありがとうございます。私も温泉街をゆっくり歩いてみたいです。もしご都合がよければ、ご案内お願いできますか?》
ほどよく個人の思いと配慮が混じる。これなら、もし俊哉があくまで「仕事帰りに」くらいの気持ちでも、こちらが押しつけになりすぎず、断られても気恥ずかしさが少ない。
Reliasは特別な助言をしてくれるわけではないが、大切なのは思いを整理して比べてみること――遥の言う「無理しないで、でも素直に」という言葉が静かに蘇る。画面を見つめ、言葉の温度と響きを一つひとつ確かめた。
返すタイミングも考えてみた。すぐ期待に応じてしまうと無理をしているように感じるし、遅らせすぎれば妙に構えているようでもある。でも、今のこの足湯に包まれた温もりの中なら、自然な速さで返せそうな気がした。
「……やっぱり、私は自分の気持ちも大事にしたい」
画面に自分の一番しっくりくる案を表示したまま、ひと呼吸つく。文字は「私も温泉街をゆっくり歩いてみたいです。よかったら、案内してもらえますか?」小さくつぶやいてから、そっと指先で確認し、データ保存アイコンをタップした。
石畳の濡れた光、柔らかい湯けむり、秋雨の静けさ。それらに包まれていると、相手のことも自分のことも、少しずつ大事に思える。まだ送信ボタンは押さない。でも、心は今の自分らしい返事に寄り添っている。
雨に濡れた路地を見渡しながら、紗和はもう一度スマートフォンの画面を見つめた。指先の温もりが消えないうちに――と決めたものの、いざ送信となると、また別の戸惑いが顔を出す。「気持ちが伝わりすぎたらどうしよう」「仕事ぬきで歩きたいと思っているって、重たくないだろうか」と、思いは縦横無尽に揺れる。それでもReliasで何度も練り直し、今、並んでいる言葉は確かに「今日の自分」に一番近いように感じられた。
ふっと秋雨が強まり、石畳に反射する光がゆらめく。その揺らぎが、心の内に走る微かな不安まで優しく包み込んでくれる。目を閉じ、遥の言葉――「無理しないで素直に」を、もう一度胸の中で繰り返した。仕事も自分の暮らしも大切だけれど、誰かとの間にごく自然な形で温かい時間が流れてもいい。その思いを否定しなくていい。
そっと画面をスクロールし、返事の案をもう一度読み返した。「私も温泉街をゆっくり歩いてみたいです。よかったら、案内してもらえますか?」控えめな言葉づかいだけれど、距離をとりすぎず、心を開きすぎてもいない。仕事仲間から一歩、プライベートな対話へと移るきっかけにも思える。拒むのでもなく、飛び込むのでもなく――ちょうどよい自分なりの歩幅で、進んでいけそうだった。
何度か深呼吸し、目の前の湯けむりが静かに漂う様子を眺めた。外湯に浸かる人々の笑い声が遠くで混じる。紗和は、これまでの自分が選んでこなかった「素直な応答」を、今なら大切にしてみてもいいと思えていた。
「……よし」
自分の胸の内に小さく頷き、送信ボタンを優しく押す。その瞬間、湯気の間からほっとした息がこぼれた。
わずか数分後、俊哉から返信が届く。「もちろん、すごく嬉しいです。ぜひご案内させてください。ゆっくり好きなところ、歩きましょう。」その文面を見たとたん、張りつめていた肩の力が抜けていくのを感じた。俊哉のメッセージは、期するものを押しつけない——相手の歩く速さや、踏み出し方まで静かに尊重してくれている。思わず、頬が緩んだ。
温かさが指先から胸の奥、さらに全身へと広がっていく。急に世界が静かになるわけじゃないし、すぐに別の忙しさが戻ってくるだろう。それでも今は、秋雨と湯けむり、そして自分の選んだ言葉と共に、静かで揺るぎない安堵と新しい期待が、紗和を柔らかく包んでいた。
返信を送り終えたあとも、紗和の胸の奥にはまだほのかな緊張が残っていた。送信ボタンを押した一瞬に集中していた気持ちが、そっとほどけ、じんわりと足元から温もりへと変わっていく。雨の音が優しく耳に届く。湯けむりの奥で誰かの笑い声が遠ざかり、外湯の静かな息遣いだけが、しばし彼女の小さな安堵を際立たせた。
スマートフォンの画面を膝にそっと伏せたまま、紗和はゆっくりと息をつく。これ以上ないほど慎重に言葉を選び、今日の自分だからこそ答えられる素直さを、今、やっと誰かに発信できた。俊哉がどんな風に思うか、もしや誤解を招いたり、少しでも負担になったりしないか、散々悩んだ。しかし、あの「よかったら、案内してもらえますか?」という言葉には、譲れない自分と、もう一歩を望む自分、どちらも偽りなく詰まっていた。
そして、返信が返ってくるまでの短い間。気を逸らそうと辺りを見渡すと、濡れた石畳が街灯の光で鈍く輝いている。鮮やかな和傘を差した女性が、子どもと手をつないで小路を歩いていく。これが、紗和の日常の風景。そのなかに今日から、少しだけ新しい彩りが加わったのだ――そんな気がした。
小さな振動と共に、スマートフォンの画面が明るく光る。「もちろん、すごく嬉しいです。ぜひご案内させてください。ゆっくり好きなところ、歩きましょう。」俊哉の文字はいつものように柔らかく、けれど今日は心なしか、やや浮き立つ響きが読み取れる気がした。そのなかに、紗和のペースや気持ちをそっと尊重してくれる、静かな眼差しを感じる。
紗和は心の中でふっと力を抜いた。迷いも戸惑いも、全部ひっくるめて今の自分として受け止めてくれる人がいる――その実感が、胸いっぱいに広がっていく。職場でも町でも、誠実であることを自分の軸にしてきた。その延長線上で訪れた、ほんの少し特別なやりとり。たった一往復のLINEが、こんなにもその日を柔らかく照らすことを、改めて知った。
周囲の湯けむりが風に流され、オレンジ色の光と混じりあって幻想的な空気をつくる。はじめて俊哉と企画の打ち合わせをしたときの、少しだけぎこちない空気を思い出して微笑む。何度も顔を合わせるうちに、気づけば自然体の言葉が交わせるようになり、今日のこの応答までたどり着いた。急ぎすぎず、引きすぎず、自分にも相手にも真っ直ぐでいられる距離感――それが今この瞬間の、紗和にとっていちばん心地よかった。
空はもう薄暗く、雨脚は少しだけ和らいだ。ベンチの下に並んだ長靴、湯に浸した足指、濡れた髪の先端。全てにじんわりと満たされる安心感。紗和はスマートフォンに「ありがとうございます」とだけそっと打ち込み、一息つく。その夜、自室に戻った後も、ふいに浮かぶ俊哉の文字と優しい余韻が、眠りにつくまで静かに寄り添っていた。
新しい季節の始まりとともに、紗和の中にも静かでやわらかな期待が芽生えていた。自分の歩幅で、大切な「これから」を少しずつ歩いてみよう――そう穏やかに誓う夜だった。


