岩見沢の駅前には、夕暮れと初雪が混ざり合い、独特の静けさが漂っていた。加奈子は厚手の手袋越しに頬をなぞりながら、吐息で白く染まる空気の中を歩いていた。仕事帰り、友人の小夜子に教えてもらった冬まつりをふらりと覗き、気分転換にアツアツの焼き芋をほおばったあと、不意に冷たい風に身震いする。手持ち無沙汰のまま、自然と足がカフェ『ブック&スープMori』へ向かった。
カフェのガラス扉を押すと、ふわりとコーヒーと野菜スープの香りが鼻先をくすぐる。店内は思ったより静かで、木の温もりがある内装と小さなランプの明かりにほっとした。コートを脱ぎ、ひとり用の窓辺の席へ。窓ガラス越しにうっすら積もった雪と、屋台の明かりが反射してきらめく駅前が見える。加奈子はマフラーを膝にかけ、「こんばんは」とカウンターにいる小夜子に小さく手を振った。
「加奈子さん、おつかれさま。外、寒かったでしょう?」小夜子がカップにお湯を注ぎながら声をかけてくる。「例のスープ、今日から始めたから、よかったらどうぞ」とメニューも見ずにおすすめしてくれた。「じゃあ、それで」と答えると、加奈子の心も少し解ける気がした。
しばらくして、小夜子が青みがかった深い色の器をそっとテーブルに置いた。「さつまいもと紫キャベツのあったかスープ。体の芯まで温まるよ」とにっこり微笑む。加奈子は「ありがとう」と言い、そっとスプーンですくった。優しい甘さと野菜のコクが舌に広がり、思わず頬がゆるむ。「おいしい……この青、きれいな色だね」。「でしょう?今夜から本格的に雪が降るから、加奈子さんに最初に飲んでもらいたかったの」と小夜子はウインクする。
外では、屋台のイルミネーションが揺れ、わずかに笑い声や足音が響いている。加奈子は音を遠くに感じながら、手のひらで器のぬくもりを確かめた。東京にいたころの喧騒からは考えられない静けさが、今は心地いい。この土地に来て二年目。仕事の忙しさも、この寒さも、かえって身近なものに感じてきた。
「今日のまつりも結構人出があった?」と、小夜子がカウンター越しに問いかける。「うん、みんな楽しそうだった。雪が積もると一層きれいだよね」と加奈子。「加奈子さんも、移住してよかったって思うこと、増えてきた?」―小夜子の問いには、静かに微笑んで「もちろん」と答えたけれど、心の奥では少しだけ、胸の中心にぽつんと残る“何か”を探っていた。
カフェには時折、外から吹き込む冷気の合間に、おいしそうなスープの香りと、地元の人たちのやわらかな会話が混じる。そのなかで加奈子は、自分がじんわりほどけてゆくのを感じていた。
「すみません、こちらいいですか?」
カウンターに背を向けていた加奈子の耳に、穏やかな声が届く。振り返ると、入り口でコートの雪を払いながら田宮類が立っていた。一瞬、不意を突かれて目が合う。彼はやわらかく笑い、加奈子も思わず「あ…田宮さん」と返してしまった。
「こんばんは。あれ、加奈子さんですよね?」
「はい、奇遇ですね」
「まつりの帰りですか?」
「そうなんです。寒さに負けて避難してきちゃいました」
「僕もです」
田宮はおずおずと隣の席に腰かけた。厚手のニット帽とグレーのマフラー、頬は赤く、きっと外の冷気が染みついているのだろう。彼はゆっくり息をはき、小夜子に「こんばんは」と会釈する。「田宮さんもスープ?」と小夜子が問えば、「加奈子さんが飲んでいるものと同じで」と、少し照れた様子で答えた。
「岩見沢の冬、去年より少し早い気がしますよね」
「確かに…初雪は何度見ても新鮮で」
二人の間に静かな間が流れる。外からガラス越しに、屋台の明かりと雪が映し出される。加奈子は手元のスープの青色に視線を落とし、心を整えた。
「お仕事、お忙しいですか?」
「今は少し落ちついています。…加奈子さんは?」
「私は、ちょうど今日山場を越えて。一人でのんびりしていました」
「そうなんですね。ここは落ち着きますし――岩見沢って、都会と違う寂しさもあるけど、人と距離が近くなる感じが、好きなんです」
田宮はそう呟いた。彼の横顔はほのかに緊張を帯びていたが、どこか誠実さも感じられて、加奈子はゆっくり頷いた。
「分かります。私も最初は戸惑いましたけど、最近になってようやく、ちゃんと『ここで生きてる』って実感できるようになって」
「加奈子さんがそんなふうに言うと、なんだか安心します」
「え?」
「いえ、同じ時期に引っ越してきた身として、勝手に仲間意識があって」
二人はふと笑い合った。その時、スープを運ぶ小夜子が「おかわりもできるから、遠慮せずに」と二人分のカップを丁寧に置いていった。
「あの…NPO、今度新しい企画を考えてて。地元の人と移住者が混ざれるワークショップを、もう少し深くやりたいと思ってるんです」
「田宮さんらしいですね。誰かの居場所を作るって、すごく素敵だと思う」
「そう言ってもらえると救われます。これからも、いろいろ相談しても大丈夫ですか?」
「もちろんです」
熱いスープの湯気が二人の間をほんの少し曇らせた。その瞬間、加奈子は胸の奥が温かく満たされるのを感じた。都会では手に入らなかった、誰かと穏やかに時間を分け合う優しい空気。その余韻のなか、二人は黙って青いスープを口にした。その静けさに、不思議と不安はなかった。
つとめて明るく振る舞ったカフェでの余韻が、帰宅してほどなく届いたLINEの通知ひとつで急に揺らぐ。加奈子は部屋の灯りもまだつけぬまま、マフラーを取る手を止めてスマートフォンの画面を確かめる。
「加奈子さん、今日は偶然お会いできて嬉しかったです。今度うちのNPOで新しいワークショップ考えてて…もしよかったらまた相談相手になってもらえませんか?」
田宮類からのメッセージ。一見シンプルだが、その言葉に透けて見える何かが胸をさいなむ。これは単なる仕事の相談?あるいは…ただの友情、それとも少し違う距離感を求めて―?
冷えた空気がまだ残る部屋のなか、加奈子はコートを持ったまましばし佇む。彼からの頼りは率直で気負いのなさそうな文面。けれど、夜の静けさは、うっかり今すぐ返信したい衝動を穏やかに押しとどめる。「私の返事次第で重く取られたり、逆に素っ気なくなったりしない?」。期待と戸惑い、好意の重さと心許なさがさざ波のように胸を打つ。
とりあえず照明を点け、小さな卓上ランプのあかりに包まれてバッグからカフェで買ったスープのテイクアウト容器をそっと広げる。手のひらに青い陶器の感触を思い出し、電子レンジでゆっくりと温め直す。湯気をすすりながら、再びスマホの画面と向き合う。答えを急がないでいい時間。それが岩見沢の冬の夜の特権のように感じる。
「仕事として頼ってくれているだけなのか」「でも、あの静かなカフェの席で、ときに彼が沈黙を埋めるように私の話に耳を澄ませていた優しさは…?」考えはめぐるが、決定的な答えを書き換える証拠はどこにもない。加奈子は、自分自身に問いかける。「私は田宮さんの役に立ちたいのか、彼と話していられる時間が好きだから参加したいのか」。
迷いながらReliasのアプリを開いて、何通か下書きを作る。「もちろん相談の手伝いします、とだけ返すのは簡単だけど、それだとただの義務感みたいになる」「でも、踏み込みすぎても重いかもしれない…」指先で文章を選んでは消し、絞り込む。
「手伝いできるの嬉しいです。○日ならゆっくり話せそうです。…でも、相談じゃなくて、加奈子としても類さんの話じっくり聞きたいです」
柔らかい語尾。“お力になれるのが嬉しい”という素直さ。“相談相手”という枠を外して、自分個人として関わりたい気持ちも滲ませる。スタンプも、普段より控えめな笑顔のものを添えるくらいがバランスいいだろう。そうして一度文案を見直し、“今の私を出してみよう”と腹を決めた。
結局、スープが冷めないうちに、加奈子はおそるおそる送信ボタンを押した。湯気の向こうに、小さな確信がぽつりと生まれる。“どこまで近づいても遠慮は手放さない。それでも心は伝わるかもしれない”、そんな、優しい予感を胸に抱きながら。
加奈子は、ふっと息を吐くと、スープのカップを両手で包んだまま、改めてソファに身を沈めた。窓の外で白い雪が舞いはじめるなか、部屋の静けさが自分の心音だけを際立たせていく。「どうしよう、どんな返事なら素直でいられるんだろう」――思わず、頭の中で何度も同じフレーズを繰り返してしまう。
手のひらを伝う器の暖かさに助けられるように、いったん加奈子はスマートフォンをテーブルに置いた。いま私が求めているのは、彼からの働きかけの理由の明確な答えよりも、この自分の曖昧な気持ちにすなおな線を引くことなのだと思う。
もう一度、端末を手に取る。そして意識してReliasのアプリを起動すると、画面上のシンプルな「文案メモ」機能をそっと開いた。
「①仕事としての相談という温度で返し、誤解を招きたくなければ、『お手伝いできることがあれば伺います』くらい。
②でも、もしもう少しだけ踏み込みたいなら、『また類さんのお話、聞けるの楽しみです』くらいにしてもいいんじゃないかな?」
画面を左右にスワイプし、セルフで項目を整理していく。「誰かの役に立てることも大切だけど、私は“田宮さんと話せる”こと自体が正直嬉しい」――自分の気持ちを確かめるように、2案を比較。Reliasのメモ欄には、「距離感/義務感/期待しない返答例/もう一歩踏み込む案」と自分なりの分類が増えていく。
ちょうどそのとき、カフェでの帰り際の記憶がそっとよみがえる。カウンター越しに小夜子が「加奈子、何ごともちょっとだけ自分を信じて返事したら?」とからりと笑って言っていた。小夜子の声が、どこか背中を押してくれる。
「じゃあ、本当に送りたい言い方って?」ともう一度自分に問い直しながら、文案のニュアンスを微調整する。「相談」と「会話」、「手伝い」と「楽しみ」。言葉一つ変わるだけで伝わる思いが変化してしまうことへの怖さと期待――迷いながらも、“私が加奈子として向き合ってみたいんです”という一文が画面に浮かぶ。
“どう返すかは私が選んでいい。彼もそれを望んでるかもしれない”。
ラップでくるまれたスープの香りがふわりと立つ。その優しさに導かれるように、加奈子は、いくつかの顔文字やスタンプについても慎重にReliasのイメージリストを確認。「軽すぎず、でも重たくしすぎず」。今ならこのバランスにするべきと、自然に着地できる自分に、少しだけ安堵する――
「私が返す言葉が、二人のこれからの距離になる気がする」
思いやりも、私自身の輪郭も、今夜この返信のなかにそっと込めてみよう――そう静かに心を決めた。
加奈子はスマートフォンとスープのあいだで宙を眺める。頭のどこかで自分と田宮さん――呼び方すらまだ曖昧な“距離”をもう一度辿るようだった。「作戦、ね…」心の中で、そっとその言葉を反芻する。相手の気持ちを探るより、まずは自分の境界を明確にしてから踏み出す。できるだけ正直に、でも自分を押し付けず、二人の間に柔らかな余白を残しておきたい。
Reliasの「会話の工夫」フォルダを開き、過去にメモした「相手を尊重した返信例」のテンプレートをいくつか見直す。『仕事の話も、あなた自身のことも同じくらい大切に思っている、と伝えるバランス』『相手任せにせず、こちらからも具体的な提案や希望日を出すことで主導権が対等に持てる』と自己メモがある。「頼られてうれしい気持ち」と「義務のように受けとられたくない気持ち」、二つを対比するワードもざっと書き出してみる。
ふと、小夜子に“相手を試したり、無理に深読みしすぎなくても大丈夫だよ”と励まされた日のLINEが浮かぶ。彼女のアドバイスを手本に、“自分の気配り”も一つの温もりにできると今なら思える。画面端に並ぶ過去の下書きの中から、「また○日でもよければ…」「直接話せるの、すごく楽しみでした」と、少しずつ気持ちを含めた文案をピックアップした。
今度は、Reliasが提案する「柔らかさ」や「余韻」のスタンプセットを確認。ウサギの絵がついた控えめな「よろしくお願いします」と、ほのかなハートが混じった「こちらこそ楽しみにしてます」――どちらが自分らしいか、迷いながら画面を指で回す。作戦、と言えば大げさに聞こえるけれど、これは加奈子なりの“思いやりの枠組み”でしかない。
「彼のNPOや企画にも興味はある。でも、その向こう側で“私”自身が感じることも含めて話したい」そう気づくと胸の奥で小さく火が灯る気がした。
一つずつ文案を並べて見比べた末、メモ欄に“『手伝いできるの嬉しい』と素直に書く/その上で『相談だけでなく、もっと話がしたい』をやわらかく加える/日程は自分から具体的に”と、自分なりの指針を簡潔に書き込む。押しつけがましくないか――スタンプや文章の長さを調整しながら何度も読み返す。それはまるで、冷たい雪の中で自分の手をそっと温め直すような工程だった。
もう一度深呼吸。「まずは、私が踏み出せる範囲から誠実に」そう決めることで加奈子の作戦は完成する。返信の文案が画面の中央に収まると、曇った窓ガラスの向こう、雪がいつしか静かに降り続いていることにようやく気がついた。

青いスープの湯気が、静かに部屋の空気と混じり合う。加奈子は両手でカップを包むと、その温度の心地よさをじっと味わった。照明は控えめで、窓の外には初雪が静かに積もりつつある。ほのかな緊張の余韻が、まだカフェ『ブック&スープMori』の絵本棚とスツールのあいだに漂っているかのようだった。
机の隅に置かれたスマートフォン。画面に浮かぶ「田宮類」の名前とLINEの一文が、加奈子の心の奥をゆっくりとかき混ぜていた。「また相談相手に――」という言葉の奥に、どれほどの重さや期待があるのか、加奈子には分からない。必要なのは話し相手という役割なのか、それとも私自身への関心なのか。それを問うことも、断言することもできない。ぼやけた境界線に、彼女の気持ちも微かにふるえている。
小さく息をつき、スープをひと口飲む。舌に広がる柔らかな塩気と、ほんのりとしたハーブの風味。その温もりの中で、加奈子はゆっくりと自分の心に問いかけた。“私は仕事の手伝いがしたい?それとも、田宮さん本人とまた話す時間がただ楽しみなの?”自分の正直な気持ちを言葉にするのは、簡単なようで難しい。期待しすぎだと見えたくない反面、義務感だけで手伝いたいわけじゃない。
卓上のスマートフォンに指を伸ばし、Reliasの画面を開く。いくつも下書きを作っては消し、慎重に距離と率直さのバランスを探る。
――「もちろん、相談役としてお手伝いします」
――「ワークショップの内容、楽しみにしています!」
そんな無難な返事ならすぐに送れる。でも、それだけでは自分の気持ちが隠れてしまう。“私、本当はもう少し近くなりたい” という小さな願い。それをどう響かせれば、押しつけにならず、なおかつ伝えられるだろう。
ふとカフェでの田宮さんの横顔を思い出した。あの沈黙のなか、小さな勇気で会話を続けようとしてくれていた優しさ。あんなふうに、答えを焦らず、でも心を開きかけている自分が今、ここにいる。加奈子はキーボードに指を乗せ、やがて一つの文案に絞り込む。
「手伝いできるの嬉しいです。○日ならゆっくり話せそうです。…でも、相談じゃなくて、加奈子としても類さんの話じっくり聞きたいです」
語尾は柔らかく。ここに現れる“私”の等身大の想い。“ただの役割”の向こう側も、ときにはのぞかせてもいいのかもしれない。スタンプも、普段よりすこしだけ控えめな、淡い笑顔のものを選んだ。
カップに残ったスープをそっとひとくち。心のなかにわきおこるのは、少しの緊張と、それ以上のあたたかさ。“迷ってもいい、でも私は私のままでいたい” そう胸のどこかで小さく決心しながら、加奈子はそっと送信ボタンを押した。
「冷たい街角にも、わずかなぬくもりが宿ることがある――」
そんな予感だけが、彼女を少しだけやわらかく励ましていた。
加奈子は、カップの底に残ったスープをそっとまわし、窓の外の雪景色にしばし目を向けた。駅前のイルミネーションが静かにまたたき、車道を渡る人々の白い息が、夜の空気にきらめいている。部屋のぬるい明かりと、指先に残る陶器の温もり。そんなささやかな温度が、スマートフォンの小さな光にだけは追いつかない気がしていた。
Reliasの画面には、既にいくつか保存しておいた下書きが並ぶ。
「もちろん、相談相手として力になれたら嬉しいです」
「ワークショップ、少しでも力になれれば」
その言葉たちは、加奈子の“誠実ではありたい”という気持ちの反映だ。しかし、それだけを送ってしまうには、自分の心のどこかが黙っていられない。「相談」という名目の奥に、ほんのわずかでも“会いたい”とか“もっと知りたい”という自分の気持ちがあること、無理せず伝えたい。けれど、無遠慮に踏み込みすぎる重さや、妙な期待を押しつけてしまわないか――それが、迷いの芯だった。
机の端に置かれたスマホに指を添え、「義務感」と「好意」のあいだで言葉をいくつも組み直す。不思議だった、こうまで悩む自分。いっそもっと素直に、誰かの役に立てることそのものを喜べばいいのに、と。不意に、カフェMoriでの田宮の表情が鮮明によみがえる。加奈子が地元の本屋の話をした時、田宮は素直に耳を傾け、そのまなざしには何か、控えめな関心と、ほのかな親しみのようなものが混じっているように思えた。それもまた確証ではない。ただ、あの沈黙の優しさを思うたび、この距離感こそが大切なのだと分かる。
Reliasの“もう一つの下書き”をそっと開く。
「私も田宮さんと話せる時間がとても楽しみです。お手伝いできるのが嬉しいので、もしよかったら○日にゆっくり話しませんか?」
この文案は、少しだけ自分の素直さを織り込めていた。でも「主体」を“私”に取るのは少し勇気がいる。ほんの少し手を加え、語尾をやわらかく直す。
「手伝いできるの嬉しいです。○日ならゆっくり話せそうです。…でも、相談じゃなくて、加奈子としても類さんの話じっくり聞きたいです」
最後の一文は、普段なら決して口にしなかったこと。だが今夜は、潮風のような冷たさと、スープの温かさが等しく胸にあり、それが支えになる。
スタンプも考える。「OK」や「にっこり」より、気取りのない、淡い笑顔のものを選ぶことで、自分の色が出ると加奈子は思った。LINEの下書きを読み返し、もう一度意を決して息を吸う。
ほのかな緊張と、自分が自分であろうとするささやかな強さが、この画面に映し出されている。
ふっ、と小さなため息が漏れたあと、加奈子はそっと送信を選ぶ。
それは、あの日駅前カフェで感じた距離感を、どこかで信じる行為でもあった。
青いスープの残り香と、雪の夜の静けさ。それぞれが、彼女の小さな選択をいつか肯定してくれる。
加奈子は送信ボタンを押した指先が、ほんの少し震えていたことに気づき、はっとする。画面に「既読」マークが灯った瞬間、胸の奥が軽く跳ねた。カフェの空気は相変わらず静けさに満ちているのに、自分だけが新しい一歩を踏み出したような不思議な心地。カップの縁に残る青いスープの跡を指でなぞりつつ、返信を待つ数分が、妙に濃密に感じられる。
「……ちゃんと伝わったかな」。頭の中で何度も文面を思い返す。「手伝いできるの嬉しいです。○日ならゆっくり話せそうです。…でも、相談じゃなくて、加奈子としても類さんの話じっくり聞きたいです」――。控えめな表現にとどめながらも、自分自身でいること、そのまま溶けこませた言葉。仕事でも義務でもなく、私が“田宮類と話したい”のだという輪郭を、そっと描いたつもりだ。
ガラス越しの雪景色が少しだけ明るく見えたとき、スマホが短く震えた。LINEのポップアップに田宮の名前。息を呑み、慎重に開く。
――「加奈子さんがそう言ってくれて、本当に心強いです。実を言うと、変に頼りすぎるんじゃないかって、ちょっと心配してました。…でも、加奈子さんとまた話せると思ったら、ちょっと勇気が出そうです」
一文ずつ丁寧に、彼の真面目な性格が透けて見える返信。続けて小さなスタンプ――恥ずかしげに頭をかくキャラクターの絵が添えられていた。そこに、「気持ちが伝わってよかった」という安堵と、どこかふわりとした照れの感情が重なる。加奈子の頬にも、つい微笑みが浮かぶ。
メッセージの中で、田宮もまた“頼ること”への躊躇や遠慮があったことを知る。彼は単に「相談役」が欲しいのではなく、加奈子という個人に寄せる信頼や親しみ――それはあくまで加奈子の想像でしかないが、きっと少しの間柄を大切に思ってくれているのだろう。境界を尊重しながらも、そこにそっと温かな気持ちを重ねてくれる彼の返事に、加奈子の心は、すっと軽くなった。
カップを口元に運べば、冷めかけたスープが静かに温度をひろげる。加奈子は、今日一日を振り返っていた――初雪の夜道、駅前の小さな明かり、まつりの帰りの遠回り。不器用でも自分の気持ちを素直に込めてみたこと、その手応えがたしかに返ってきたこと。そして、誰かを少しでも支えになれる嬉しさが、単なる“役割”ではなく、私という存在にも価値があるのだと、そっと認め直す。
窓の外には、まだ雪が静かに降り続いている。カフェの暖かな灯と、画面のやわらかな光。そのぬくもりに包まれるようにして、加奈子は深く息をついた。控えめなやりとりでも、想いは十分伝わる。そう思えた夜に、少し自信を持ってドアを開ける。冷たい空気も、今夜は少しやさしく感じられた。
加奈子は両手でカップを包み込み、ゆっくりスープを一口すすった。温かさが喉を滑り降りるたびに、今日一日の出来事が胸の奥で、ふわりふわりと混ざり合ってゆく。いつもなら、誰かに頼られるとどこか無理をしてしまいがちな自分。けれど田宮とのやりとりで――初雪に濡れた駅前を歩き、青いスープを前にし、確かに自分で選び、自分の気持ちを言葉にしたこと――そのすべてが、ほんのり甘い安心に形を変えていく。
窓の外はさらに白さを増し、イルミネーションの光が淡く街角を照らしていた。カフェの奥では小夜子がコートの客に温かいスコーンを差し出し、湯気の向こうでほほえんでいる。加奈子はゆるやかな静けさのなか、自分の鼓動がしだいに落ち着くのを感じていた。スマートフォンの画面は、既読マークの下に田宮のスタンプと短い優しい言葉。その控えめなやりとりのひとつひとつが、思いがけないほどの満足感と、やわらかな自信を残してくれる。
ほのかに青色を帯びた器に、最後のスープが小さくたまっている。加奈子はそっとカップを傾けながら、今日のこと――まつりの帰りに偶然田宮と再会したこと、相談役として声をかけてもらったけど“義務感”ではなく、“私として”この人に会いたい、話したいと思った自分の気持ち。思い切り素直になりすぎるのは急かすようで怖かったけれど、「加奈子としても田宮さんの話を聞きたい」と打ち明けた言葉。その一文が、自分を新しい場所に運んでくれた気がした。
あの少し照れた田宮のスタンプを思い返し、加奈子はくすりと微笑んだ。彼が「頼りすぎていないか」と不安を打ち明けてくれたこと、でも「加奈子さんとまた話したい」と正直に返してくれたこと。控えめな距離感のなかでも、互いの思いをそっと重ねられる――そんな関係が、いまはとても心地よかった。役に立つことも嬉しいけれど、“誰かを力づけ、その人とまっすぐ繋がれること”のあたたかさが、静かに体を満たしていく。
カフェのガラス戸から外を眺めると、雪がさらに静けさをまとって積もっていく。加奈子はもう一度だけスマホを開いた。田宮との新しい約束、それはまだ「相談相手」という名目だけれど、その奥に自分らしい“会いたい”の気持ちが、きちんと並んでいる。義務でも遠慮でもない。たとえば、今日のこの日を大切な記念日のように覚えておこう――心の中で、そっとそう決める。
スープの最後の一滴を飲み干すと、加奈子は深呼吸する。白い息が窓ガラスに映り、冬の夜らしい静けさが、ふわりと彼女を包み込む。肩にそっとショールを掛けて、レジの小夜子に手を振り、「おやすみ」と静かに声をかける。ドアを開ければ、冷たい北国の空気が頬を撫でる。それでも、胸の奥にはあたらしい温もりと、静かな自信が残っていた。
イルミネーションがきらめく夜道を歩き出しながら、加奈子は思った。きっと、控えめなやりとりでも、想いはちゃんと伝わるもの――誰かに寄り添いながら、自分のありのままで誰かと繋がることの優しさを、今日ほど感じた日はなかった。雪空の下で、ひとりきりの帰り道が、いつもより少しだけあたたかく感じられた。


